「甲斐、どうしたんだろう……
" 「甲斐、どうしたんだろう……。私、何か怒らせるようなこと言っちゃったのかな」「いや、そんなことはないと思うけど。仕事で嫌なことがあって、機嫌が悪いんじゃないか?」「だったらいいんだけど……」甲斐の態度がいつもと違うと、調子が狂う。気分屋な人が急に機嫌を悪くしてもあまり気にならないけれど、甲斐は気分屋とは真逆の性格だ。子宮內膜異位症痛人当たりが良く、苛立つようなことがあってもちゃんと抑えることが出来る人だ。もし仕事で嫌なことがあったとしても、甲斐は関係のない人に八つ当たりなんてきっとしない。甲斐の性格は、この中では私が一番よく知っている。「あんたたち、揃って鈍感ね。特に青柳は、依織以下」「何だよそれ」「私もちょっとトイレ行ってくる」「いってらっしゃーい」やっぱり甲斐の様子が気になったため、蘭と青柳を残し席を立った。靴を履き通路の奥を進むと、ちょうどトイレから甲斐が出てくるところに出くわした。「七瀬……」「私、甲斐に何か嫌なこと言った?」「は?」「だって甲斐が怒ってるように見えたから……私の発言で嫌な思いをさせたなら、謝りたいと思って」"" 別にいい人ぶりたいわけではない。相手が甲斐じゃなければ、わざわざこんな風に謝ろうとは思わない。「……やっぱ、変に遠慮しないでお前だけ誘えばよかった」「え?」店内がざわざわしていることもあり、しっかり聞き取れなかったため甲斐の口元に耳を近付けようとした。すると、私の後頭部を甲斐の大きな手が包んだ。そして、気付けば一瞬で甲斐に唇を奪われていた。「ん……!」ここは、二人きりの密室ではない。誰に見られるかわからないのに、なぜ甲斐は私にキスをするのか。そして私は、なぜ甲斐のキスを受け入れてしまうのか。唇が重なる度に、思考が麻痺する。
考えることを、やめたくなる。前回も、今回も、強引なキスに抗えなくなる。甲斐の舌が私の口の中に侵入したところで、私はようやく彼の体をはねのけた。唇は離れ、鋭い視線で私を射抜く甲斐の姿が瞳に映る。「ちょ、バカなの!?こんな所でキスするなんて……!」「バカはどっちだよ」甲斐は少しも悪びれず、むしろ清々しい表情をしていた。「少しは俺のことで悩め。バーカ」「はぁ……?」なぜか強気な甲斐は動揺する私に背を向け、一人で席に戻って行った。"" 「言われなくても悩んでるし……」
私は今にも消えそうな声で、立ち去る甲斐の背中に向けて呟いた。甲斐と身体を重ねたあの日から、気付けば私の頭の中は甲斐のことでいっぱいだ。どんな態度で接すればいいのだろう。今まで、甲斐のことで頭がいっぱいになったことなんてなかったのに。そして今も、私は頭を悩ませている。なぜ、またキスなんてするのだろう。少しは俺のことで悩めって、どういう意味なのだろう。普通に考えれば、きっとこの状況は甲斐が私を好きなパターンだ。もしも甲斐が私に恋愛感情を抱いているのなら、身体を重ねたことも、今のキスも納得出来る。でも、甲斐が私を好きになるはずがない。『お前みたいな何でも話せる女友達、初めてだよ』『お前は貴重な俺の親友だから』甲斐の口から、今まで何度も聞いたことのある言葉。それは、私たちは同僚の枠を超え、友情という固い絆で結ばれているのだと強調するものばかりだった。結局私はこの日ずっと甲斐のことで頭を悩ませ、目の前に座っているのに甲斐と目を合わせることが出来なかった。"そんな私の強い意志が伝わったのか、遥希はようやく自分の気持ちに区切りをつけ納得してくれた。遥希は謝罪の言葉を言い残し、その場を去って行った。